毎日TED

TEDを見ている最中に考えたことを書いています。 本筋から離れることが多いです。

タグ:社会問題




発展途上国では住所を割り当てられていない家が数多く存在する。
その結果、自分の家の場所を相手にわかりやすく伝えることができずに救急医療などにおいて問題が起きている。
この課題を解決するため、地球上のあらゆる地域に3つの単語の組み合わせで場所を特定するという方法を考案したという話。

先進国と途上国の間ではいまだに多くの格差が存在していると思う。
先進国に住む人は途上国の生活を知らないし、
途上国に住む人も先進国の生活を知らない。
どちらも互いのことを知らないから課題に気づくことができない。
異なる地域間の格差とそれによって生じている課題に気づくためには両方の環境で生活することが必要だ。
生活しないまでも頻繁に交流することでギャップに気づけると思う。
問題解決に向けてまず取り組むべきことは互いの交流だろう。 




初めて自殺を試みた人のうち19/20は失敗するが、2回目に試みた場合の成功率は37倍になる。
自殺に失敗した人に対して周囲は腫れもののように扱う。
そうではなく、自殺しようとしたことに踏み込んで話し、問題を解決して2度目を起こさせないようにすることが必要だという話。

センシティブな問題を抱えている人に対して、どう扱って良いかわからない場合、関わることを避けてします。
それは不用意に触れてはならない部分に触れて、相手を傷つけたり気分を害してしまうことを避けるためだ。
そうすることで確かにマイナスの影響を与えることは避けられるかもしれない。
しかし、同時にプラスの影響を与える機会も失われてしまう。
場合によっては人の手を差し伸べることが必要な場合もある。
そうした時に腫れもののように扱うより、傷つける可能性があっても、相手の問題を解決するために踏み込むことが必要な場合もあるのかもしれない。 



アメリカの多くの貧困層が光熱費の支払いにも困っている。
この問題を解決するために光熱費を抑える取り組みをすることで同時に環境問題の改善にも寄与しようとしているという話

社会の課題は一つ一つが独立しているわけではなく何かしらの他の課題とつながっている。
それらは互いに改善と悪化の関係が相反している場合もあれば、共通原因に起因した課題の場合もある。
あるいは原因は別でも一つの解決策で同時に改善できる場合もある。
問題の解決策に滞った場合は、他の課題とつなげて考えてみることで新たな突破口が見えてくるかもしれない。 



インターネットを参照する行為は私的な行動だと思われているが、ユーザの行動によってメディアが、形成されている今、参照することや特にクリックすることが公的な行動だと考えるべき、という話。

SNSに悪ふざけの投稿をしたことによって炎上する事件が以前は頻発していた。
おそらく彼らは友人間で共有している感覚だったのだと思う。
世界に対して発信されているとは考えていなかったのだろう。
世界中から叩かれると知っていたら、SNSへの投稿はしなかったと思う。
最近は、そうした情報リテラシーが醸成されたためか、そうした不適切なSNSへの投稿による炎上事件は減ってきたように感じられる。

現在問題となっている行為は、コメントによるヘイトや誹謗中傷だろう。
そうした行為を行っているユーザはおそらく、その行為が相手や自身に与える影響を考慮していないと思う。
それはSNSでの悪ふざけ投稿と違い、自分の姿がみえていない、と感じているからなのかもしれない。
しかし、その行為による影響は確実に起きている。
誹謗中傷を受けて傷つき亡くなった被害者もいるし、そうした行為によって訴訟を受けている加害者もいる。
そうした事実はニュースで流れてはいるものの、全ての人が認識しているわけではない。
認識していないからそうした行動によって生じる影響を知らずに同じ行動を起こしてしまう人が現れるのだと思う。
この問題もいずれはネットリテラシーの向上によって沈静化はすると思っている。

自分自身の写真や動画の投稿による影響については認知され、
コメントによる影響が認知され、
次に何が認知されるかとしたら、このスピーカーがいっているように、クリックや参照になるのかもしれない。

クリックや参照自体は一見、何もメッセージを伝えていないようにみえる。
しかし、その行い自体がネットのメディアに影響を与えていると言うことは認識すべきかもしれない。
わかりやすい例ではSNSの投稿に対して、good or badの意志表示を示すことができる。
その意志表示自体が生み出す影響もある。
例えば、不適切な動画に対してgoodで意志表示をすることで、その投稿者は同じ行動を繰り返し行うようになる。
不適切動画を投稿するyoutuberが一つの例だ。
そうした社会的に不適切な行為を助長してしまう。
つまりは、その動画に意志表示を示したり参照することが間接的に社会にとって不適切な行為を生み出してしまうということだ。
現在の法の範囲ではそうした行為が罪に問われることはないが、将来的にどうなるかはわからない。
20年前には法的に許されていたネット上の様々な行為が規制されていることからもそうした未来の可能性は考えられる。

いま自分たちがすべきことは、ネットを参照するだけの行為であっても公的に影響を与える行為だと認識すべきことだ。
そのことをわきまえて公的に良いことかどうかの判断をネットでの行動にも適用していくべきなのだと思う。


何十年もの間、終身刑に服している女性受刑者が自分の思いを歌にしたもの。


アメリカでは終身刑を受けた女性受刑者が仮釈放されたことは過去に数例しかないらしい。
アメリカでの女性の終身刑は死ぬまで刑務所からでられないことに等しい。
何十年も刑務所から出られない生活を送っていれば自分の過ちを後悔せずにはいられないだろう。

死ぬまで刑務所にいなければならないことの苦しみを知っていたら犯罪を抑えることができたかもしれない。
あるいは刑務所の生活を知らなくても、良いことと悪いことの分別がつけば犯罪には手を染めなかっただあろう。

人は極限状態におかれた場合、生きることを優先し、犯罪に手を染めてしまう可能性が高くなると思う。
どんな人も犯罪を犯す可能性はある。
環境次第だ。
例えば貧困と犯罪発生率の相関は確認されている。
同じ人間でも裕福な家庭に生まれていれば犯罪を犯さなかったかもしれない人が貧困家庭に生まれたばかりに犯罪に手を染める場合はあると思う。
貧困家庭であれば必ずしも犯罪に手を染めるわけではない。
確率の問題だ。

そもそも貧困とは何か。
生きること自体が難しい絶対的貧困と、周囲との比較によって生まれる相対的貧困があると思う。

何百年も昔の飢饉のときに比べたら現在の生活は貧困とはいえないだろう。
ただ、周囲の家庭と比較することで貧富の差を感じ、辛くなると言う貧困はあると思う。
そうした感情を抱くことはやむを得ない面もある。
そういう意味では格差の是正によってこうした相対的貧困は防げると思う。

犯罪が増えることは被害者にとっても加害者にとっても不幸なことなので減らすための取り組みは必要だ。
それは個々人の心がけだけでは限界がある。
社会の構造を犯罪が発生しにくいものに変えていくしかないと思う。



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