毎日TED

TEDを見ている最中に考えたことを書いています。 本筋から離れることが多いです。

2020年12月



悪性の癌を患い死の淵に立たされたスピーカーが臨死体験をし、そこで悟ったことについての話。

この話で印象深かったことは臨死体験の中で悟ったことの例として、手の届くところにあるのに光を当てないから気づかなかったものに気づいた、という話だった。
認識というものはその人が経験したものによって得られるものだと思っている。
例えば、会社員であっても、一般の社員の場合の物の見方や考え方と、管理職になった場合とでは異なってくる。
それは与えられた環境によって意識しなければならない部分が変わってくるからだ。
立場が変わることで今まで見えていなかった部分が見えるようになるのだと思う。
これは同じ環境における人間関係が変わった場合の例だ。
別の例としては、例えば生活する地域が変わった場合も物の見方は変わる。
東京で働いている場合と地方で働いている場合では見方が変わってくる。
海外のように文化が違う土地であればさらに異なるだろう。
立場や環境が変わることで、自分が意識を向ける場所が変わるから、今まで見えなかったものに気付けるのだと思う。
臨死体験についてはとてもレアな経験だと思う。
人は誰しも死を恐れる。
恐れるから死について考えないようにしている。
そうすることで死の周辺にあるものに光を当てる事も自然と避けてしまっている気がする。
死に対して恐れをなくし受け入れて正面から向き合う事で新しい何かに光を当てることができるだろう。
そうすることで、これまで得られなかった悟りを得られるのかもしれない。
臨死体験に限らず、人は自分が嫌なことには目をそむけてしまう。
そうすることで嫌なことの周りにある大事なことにも光を当てられずにいるかもしれない。
自分が成長したいと思うのならば嫌なことや避けたいことに向き合う必要があると思う。


記憶力を向上させるためのテクニックの話。

その方法は記憶を定期的に思い出したり更新したり、とにかく、一度覚えた事をそのままにせずにもう一度思い出すことが大事なようだ。
記憶できる容量は再現がない。

自分は生家を離れて何年も経つし、もう建て替えられて残ってすらいない。
しかしいまだに間取りをはっきり覚えているし、頭の中で家の中を移動しながら思い出すことができる。
家の中だけでなく家の周辺もいまだに覚えており、散策できる。
それは何度となく歩き回ったこと、また、その場所で過ごした思い出も多々あるので一緒に記憶されているのだと思う。
このように何度も見たり経験したことは脳内にくっきりと残り思い返すことができる。
何を覚えているかでその人が何に関心を持っているかがわかるのかもしれない。
自分は暇なときは、よく家の中や家の周辺を探検していた。
何か新しい発見がないかを探していた。
新しいものを見つけるとうれしかったけれどあまり見つけられることはなかった。
同じものを繰り返し見ることができるタイプなんだと思う。
また、自分の記憶の残し方もそうなのだと思う。
何か新しい発見を求めて同じものを何度も見聞きする。
たくさん本を読んで何も覚えていないよりは、一冊の本を記憶に残るくらい繰り返し読むようなやり方が自分にはあっているのかもしれない。


政治家や企業のトップのようなリーダーが話すスピーチで使われているレトリックのテクニックについての話。

ここで使われている修辞学のように、人の上に立つ人が優位に事を運ぶために知っておいた方が良い知識や技術は存在すると思う。
それらの知識や技術は現代であれば自分で学ぼうと思えばいくらでも学ぶ手段は提供されている。
しかし、学校などのように学ぶものを他人が決めてくれる環境にいては学ぶことができない。
まず、修辞学という学問の存在を見つけて、学ぶ手段を見つけて初めてスタートラインに立てる。
そこから本題であるどのようにして学ぶかという課題が続く。

そもそも人の上に立つような人はそのための知識や技術を自分の力で見つけるべきだろう。
誰かに御膳立てしてもらったカリキュラムではなく、自分自身で何を学ぶかその学ぶべきものをどのようにして見つけるかを自分自身で行うことができないと、人の上に立つ資格はないのかもしれない。

一つの分野で世界のトップに立つことは難しいが、複数の知識の組み合わせでオンリーワンになることは可能だ。
どのように自分の知識の幅を広げていくかを考えることはとてもエキサイティングなことだと思う。



感受性が強い人の個性を尊重し、彼らの能力を生かせる社会を作っていこう、という話。

冒頭で、センシティブという言葉に対する世間が持つネガティブなイメージと、それを払拭すべきという話があった。
そもそも、センシティブという言葉の意味に対する世間とスピーカーの考えが違っているのだと思う。
同じ言葉を使っているけれど、概念レベルで異なるものをイメージしていると思う。
同様に同じ言葉に対する各人の認識の違いによるコミュニケーションミスが散見される。
簡単な言葉と比較して難しい言葉になるほど、その言葉の概念を理解することが難しくなるため、人それぞれ捉え方が変わってくるのだと思う。
ではどうすれば良いか。
前提として同じ言葉でも人それぞれのイメージが異なることを頭に入れておくと良いかもしれない。
そもそも理解の仕方が異なるのであれば認識を合わせることができない。
そしてそれは普通に起こりうるし、完全に一致させることはできない。
にもかかわらず、自分が認識している言葉の概念を前提として話をすると議論が平行線に終わるのだ。
うまく議論が噛み合わない場合は、原因となる言葉の意味をそれぞれどのように認識しているか確認する必要があると思う。



レスラーだった教え子との交流と彼の死、その後、彼の妹と結婚し、その子供に教え子の名前をつけたという話。

人と人とは愛し愛されて繋がっていく。
世の中にある家族はそうして作られたものだ。
そうして社会は作られてきた。
愛し愛される関係がないまま家族や社会を作ることはできない。
人類を継続させるためには、愛し愛されるということを推奨していかなければならない。
この関係を作るためには一緒に何かの経験をする、出会うことが必要だ。
昔は一人の力では生きていくことができなかったから社会との繋がりも必要で、そうなると自ずと出会いも生まれる。
人と人とが協力しなければならない社会であれば家族は生まれやすいのかもしれない。
しかし、現代は、誰かの手を借りなくても生きていける。
厳密には人と人との交流が発生するような直接的な関係を作らなくても生きていける。
だから家族ができにくくなっているのかもしれない。
社会の仕組みと人口の多寡に関係性があるのであればこれは仕方ないことなのかもしれない。
そもそも人は一生のうちに会える/関われる人数は限られている。
その意味では現代の人口数の現象が個人で見た場合のコミュニケーションに影響があるわけではないと思う。
ただ、社会の仕組みとして人数が増えることを前提としたやり方が適さなくなるだけだ。
今の社会の仕組みの中で無理に人口を増やすことは自然の摂理に反しているのかもしれない。
であれば、今の状況を否定するのではなく受け入れた上でどうすべきかを考えるべきなのかもしれない。

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