毎日TED

TEDを見ている最中に考えたことを書いています。 本筋から離れることが多いです。

2020年10月



夢を諦めないこと、他者からの否定的な意見に負けないこと、失敗を恐れないことについて自身のロケット開発の夢を追いかけた経験を元にした話。

夢を諦めるな、というメッセージはとても大事だと思う。
大事だからかもしれないが、色々なメディアや場面で何度となく聞いてきた。
いわば使い古されたメッセージだ。
どんなに大切なメッセージでも何回も聞くと情報としての鮮度が落ちる。
そうなるとなかなか頭に入ってこなくなる。

重要なメッセージであってもそれをどのように取り込むかは人によって異なるし、状況によっても異なる。
わかったつもりにはなっているけれど、実は本質を掴んでいなかったりする。
特に理解力に乏しい幼い頃に聞いてわかったつもりになっていると厄介だ。
本当はわかっていないにも関わらず、新たにその情報がインプットされてもわかったつもりになってスルーしてしまう。
こういった大事なメッセージは歳を重ねて人生経験を積むことで理解力が変わってきたりする。
だからわかったつもりになってスルーするのではなく、毎回、改めて考え直すべきだと思う。
そうすることで新たな発見を見つけられるかもしれない。

今回、なぜ、人は夢を諦めるかについて改めて考えてみた。
おそらく、夢を諦める人は他の何かと天秤にかけた結果、諦めるという選択をしているのだと思う。
それしか選択肢がなければ誰だって諦めたりはしないはずだ。
諦める原因の一つとして、家庭を守ることが考えられる。
生活を安定させるためには安定した収入を得ることが必要だ。
安定した収入を得るためにはリスクが少ない仕事をするしかない。
そうして人は夢を諦めてリスクが少ないけれど確実な仕事をする方に回るのだ。
その人たちは自分の選択が正しいと考えたい。
だから夢を追うことを否定したいのだと思う。
ここまでは以前からわかっていたことだ。
今改めて思うことは、こうした人たちがどうすれば夢を追うことに対して肯定的になれるかだ。
それは人類という広い枠の中で役割分担をしている、という考え方を持つことだと思う。
人は自分とその家族の幸せだけに目を向けがちだ。
そうではなく、人類全体としての幸せ、具体的には将来的な発展のことを考えるべきだ。
その目的を達成するためには、大きく分けて、確実に子孫を残していく担当と、
新しい挑戦をしてその子孫たちの生活を楽にする道を考える担当に分けて考えるとよいと思う。
夢を諦めた人たちは、そう考えるのではなく、人類共通の目的の中で、確実に子孫を残す担当をしていると考えれば良い。
それは人類共通の目標の中で大事な役割だ。
一方で、自分たちにはできない、新しい挑戦をする担当の人たちの必要性を認識すべきだ。
その道に進む人たちは自分たちと同じように安定した家庭を営めないかもしれないというリスクを背負っている。
そのことに尊敬の念を抱きつつ、人類共通の目的のために頑張ってくれることについて感謝と共に応援する、と考えるべきなのだ。
解決策としては自分の幸せだけでなく人類共通の目的とは何か、その中でどういった役割が必要で自分がどの担当なのかを意識すると良いと思う。




マスターベーションについての自身の考えについての話。

マスターベーションを行っている、ということを公言することは憚られる行為として見做されている。
友人同士の戯れの会話を除いては。
なぜ憚られるかというと一つにこの行為は恥ずべき行為と見做されているからだ。
マスターベーションは性的パートナーがいない者が自身の性的衝動を満たすために行うことが一般的だ。
マスターベーションを行う=異性からモテていない、ということを表している。
にも関わらず性的衝動を抑えられず1人で処理を行う姿に哀愁を感じさせてしまう。
つまり、マスターベーションを行う=魅力がなくて寂しい人間である、という印象を与えてしまうことになる。

実際には既婚者のように性的パートナーがいる人だったり、モテてはいるけれど別の刺激を求めてマスターベーションを行う人はいるだろう。
しかし、マスターベーション自体が持つイメージがネガティブであることに変わりない。

こういった公言することが憚られることを行うこと自体どうなのだろうか。
人に言えないこと=するべきではないことではないだろうか。
同じように公言すべきことではない行為として排泄がある。
排泄については生きる上で必要なことであるから避けることはできない。
一方、マスターベーションはどうかといいうとやらなくても生きてはいける。
生きる上で必須ではなく、また、公言することが憚られることは、やるべきではないのかもしれない。

あるいは、世間の常識が人体の摂理に追いついていないのかもしれない。
ティーンネイジャーでマスターベーションの誘惑に抗える者は皆無と聞く。
であるならば、人が持つ摂理として受け入れるべきことかもしれない。
そしてそれは排泄行為と同じレベルで語られるべきことなのかもしれない。

いずれにしても人が持つ摂理をタブー視することは不自然だと思う。
当たり前のことは当たり前のこととして受け入れることで合理的なコミュニケーションを作ることができると思う。


疑問を抱くとはどう言うことか、何に対して人は疑問を抱くのか、と言う話。

子供の頃はよく親に質問をしていた記憶がある。
一方で、大人になってからは質問をしないと言うか疑問を抱くことが減った気がする。

仕事の現場で考えるとわかりやすい。
ある仕事について、なぜそれをやるのか、何のためにやるのか、
について疑問を持って行う人と行わない人がいる。
疑問をもたない人は仕事の目的を考えないまま、ただ言われた通りにその作業を行う。
おそらく、その人にとって仕事とは給料を得るための手段でしかないのだろう。
だから、その作業がどんな意味を持つかには興味をもたない。
その目的を考えることによって余計な脳のエネルギーが発生してしまう。
何も考えずに言われたことをすることが脳のエネルギー消費を抑えるためにはベストだと考えるのだろう。
つまりは自分が楽をするために疑問をもたない、と言う選択肢をとっているのだと思う。
大人になると家庭内や人間関係などでエネルギーを消費しなければならない。
だから自分にとってどうでも良いことにはエネルギーを使わないように自動的に判断が無されるのだと思う。

仕事においてこうした何も考えない状態を作らないためにはどうすれば良いか。
生活における他の部分で疑問をもたない=脳のエネルギーを作らない状態を作れば良いと思う。

子供が何にでも疑問を持つのは、他に脳のエネルギーを使うことがないからだ。
何もしなくても食べ物は用意されるし、生活上の判断も全て親が行ってくれる。
生きることについて脳エネルギーを使う必要がない彼らは、目の前にある他のことに脳エネルギーを使うことができるのだ。

仕事優先で生きたければまずは日常生活での脳エネルギーの消費を減らすところから始めるべきだと思う。




元ギャング組織に所属していたスピーカーがどのようにして足を洗ったかと、同じような境遇の若者を救済する活動についての話。

普通の人が普通であることは褒められないのに、悪い人が心を改めて普通の人になると称賛されることは不公平だ、という議論がある。
到達点だけで議論すれば、同じ状態同士なのだから称賛される人とされない人がいることはおかしい、という理屈はわかる。
しかし、後者が称賛されている理由は、到達地点に関してではなく、マイナスから普通に到達したという、変化の幅である。
この変化については称賛されるべきだと思う。
さらにいうと、変化を起こすためには相応の努力が必要だ。
努力をして変化を行った、ということが称賛されているのだと思う。

普通の人が普通であり続けているということは、そこに何も努力が見えない。
あるいは普通をキープするために努力をしているのかもしれない。
しかし、状態変化を伴わない変化は社会からの称賛の対象にはならないのだと思う。

例えて言えば、天候や自然災害など人の力ではどうしようもならないものによってマイナスの状態に陥ったとする。
そこから復興を果たし、元の状態に戻したとすれば、多くの人が評価をするだろう。
そこには多くの努力が費やされることであり、誰もができることではない。
しかし普通の状態を普通のままキープすることには一見すると何も努力が見られない。
何もしなくてもそれは実現できるからだ。
それは誰にでもできることだ。

結局は誰にでもできることかどうかが評価の対象になるのだと思う。
評価されたいのであれば普通の人にはできないことをやるべきだろう。


マスターベーションに関する事実と嘘についての話。

どんなものでもやりすぎはよくない。
特に健康に関することはそれが顕著に現れる。
水は生きるために必要だけれど取り過ぎると身体に悪い。
それ以外にもどんな栄養素も適量は必要だけれど取り過ぎると身体に悪い。

量の部分を恣意的に切り取って話せば、どんなものでも身体に良いと言えるし、逆も言える。

行為自体で良し悪しを語ることはできないと思う。

行為+量、あるいは組み合わせなど、複数の要素を絡めて説明する必要があると思う。

健康法などで、そう言った部分を省略し、行為や物だけで良し悪しを語るものは考え方を誘導しようとしていると考えている。 

↑このページのトップヘ